magcupの日記

何でも引き付けるカップ、magcup

(父の想い出)子供の小遣いについて

子供の頃(1960年代)初めて小遣いを貰ったのは、小学校二年か三年だったと思う。週に100円、と言うことだったがしかし、別に駄菓子屋に通いたいわけではなく、欲しいのはプラモデルだったので、すぐプラモデル屋(当時はそういう店があった)に走って100円のプラモデルを買ってしまい、親に呆れられた。

その後、続けて小遣いを貰っていたかどうか、はっきり覚えていないのだが、小学校五年くらいから月に500円貰うことになった。これも別にお菓子やおもちゃを買うあてはなくて、欲しかったのは「子供の科学」と、電子工作の雑誌「初歩のラジオ」と「ラジオの製作」である。二冊買うと既に足りなく、どれか一冊にしていると連載が読めないのでいらいらした。それに、当時、自分の趣味になりかかっていた電子工作パーツは一切買えなく(パーツを買うには繁華街まで出なければならず、それだけで大変だったが)、どんどんストレスが溜まって行った。六年になって千円に値上げして貰ったのだが、小学校の学年朝会で小遣いのアンケートが行われ、500円以上貰っている人は百数十人の中に誰もおらず、「自分は千円」とは遂に言い出せなかった。自分は電子工作の本を買っていただけなのだが、、、。

中学に入ってもう少し値上げして貰って月に千円から三千円くらいになった。中学校の場所が繁華街の近くになり、パーツショップに自由に行けるようになったので、トランジスタやら抵抗やら工具やらを買い込み、ますますお金が足りなくなり、親にせびるようになって、また呆れ返られた。ただ最後は、父親に「五千円やるから二度とお金のことを言うな!」と怒鳴られたのを覚えている(嬉しかった)。
さすがに五千円あると色々買えて、とうとう小型の万力まで買ってそれを勉強机に取り付けていろいろ工作をした。プリント基板に穴を開けるのに、振動の少ないモーターとピンバイスを組み合わせてマイクロドリルを作ったり、第二塩化鉄を買って、銅箔のエッチングをしたりした。ただ当時、廃液は庭に穴を掘って捨ててしまったのが痛恨である。それで、いろいろやっていると、五千円でも足りなくなるのだが、お年玉まで待つ、と言う辛抱を覚え、何年かがかりで短波ラジオを完成させたりした。

高校に入って二年生のとき、廃車寸前のスーパーカブ(ホンダの原付)を友達からタダで貰い、それで通学するようになった。当時は全国的に「三ない運動」真っ盛りであったが、自分の通っていた高校だけは、広域からの通学者の利便、と言う名目でバイク通学が許可されていた。おかげで通学費が激減した。高校の場所が繁華街を中心にして自宅から反対位置にあったため、バスで行こうとすると、乗換えが必要だった。定期代は月に6000円以上になった。しかし、バイクで通うとガソリン代はせいぜい500円である。自賠責と任意保険を入れてもせいぜい月に千数百円で済んだ。
交通費は「バスの分」として親から貰い続けていたため、今度は毎月の預金を覚えた。一年貯めれば、オーディオのコンポーネント一つに十分に手が届く。もっと上を狙って、TEACセミプロ級カセットデッキC3を月賦で買おうとお店と交渉した。貯金は既にC3を買えるほど持っていたのだが、ちょうどお店で「月賦手数料無料」のバーゲンをやっていたのだ。しかし、高校生とは月賦契約出来ませんと言われて諦めた。そのとき、一緒にいた父親に「私が名義の肩代わりをしようか?」と言って貰えたのが大変嬉しかったが、自分の名前で契約出来なければ意味がないと言う気がして止めてしまった。しばらくして、もっと安いTCK-55を現金で買った気がする。

子供に貯金をさせるには、ある程度余裕が出るような与え方が必要だと言うことになる。ぎりぎりでは貯めようがない。



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