magcupの日記

何でも引き付けるカップ、magcup

1980年国鉄時刻表より

1. まずは、1970年代後半、高校二年の春に、新潟から一泊で、、信越電波管理局管内の長野まで、アマ無線(3級、当時は電信級)の試験を受けに行った話。1970年代後半であった。
当時、高校の先生に、アマ無線の試験を受けに行くので明日休みたい、と申し出たところ、「高校生にもなってそんなことをいちいち報告しに来るな!」 と叱られた。嬉しかった。
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新潟発赤倉。信越線で長岡から宮内へ廻って、柏崎、直江津を通り、糸魚川へは行かずに、、
長野に昼過ぎに到着。試験は午前中からあったので、父に前泊のホテルを取って貰った。もう少し前の1976年に、4級(当時は電話級)を受験した際は、日帰り出来たのだが、、、。当時は、複数便運行で、もっと早朝の便があったのだろうか。

無事に実技(モールスコード送受信)と、筆記試験を終えて駅に戻る際、善光寺の前を通ると、「お戒壇巡り」の看板が出ていて、参拝券を買って入ってみたのを思い出す。戒壇は、途中に一か所、明かりがあるのだが、そこまで完全に暗闇であった。真の闇の中を壁伝いに歩く経験は二度目であった。



 
2.次は、1990年代に、仙台~新潟まで、帰省する際に使った「あさひ号」。当時すでに、新潟に帰るよりも、東京に戻る用事の方がずっと多かったのだが、一応、盆暮れには義理で帰省していた。

あさひは、秋田行きの羽越と連結して新潟を発車。坂町で分離し、米坂線に入る。一応、急行なのだが、非常に暗いイメージだった。
坂町から二時間ほどで山形県入り(米沢)。まだまだ、、。
蔵王を通過し、一時間ほどで、山形駅へ。まだまた、、、
仙山線に乗ればあと一息。実家でのいやなことも忘れ、もう一時間半で仙台着。合計所要時間5時間13分。 90年代に、YS11や小型ジェットによる航空便の運行が始まってからは、もっぱらそちらを利用したが、またいつの間にか廃線になってしまった。


  
 
3.高校の修学旅行で1970年代に京都に行ったときの「特急雷鳥」。新潟~大阪の直行便である。北陸新幹線が出来たせいで、新潟~関西の往来は本当に不便になってしまった。

生徒の半数は雷鳥、残りは東海道新幹線経由だった。当時はのぞみ号も上越新幹線もなく、上野から東京までも山手線で行かねばならなかったので、直通の雷鳥の方がずっと速かった。
直江津から、今度は糸魚川を通って、親不知を過ぎ、富山・金沢・福井、と北陸三県を律義に経由し、合計所要時間6時間48分で京都着。近江塩津から、北陸本線を離れ、湖西線回りで行く。

 
大学生になってから、「急行きたぐに」と言う夜行列車で、東京から京都回りで新潟に帰省したこともある。普通車なので、急行券700円で乗れてしまい、ホントに大丈夫なのか心配になった。



  
4.実家(2021年売却済)に行った際に、散々お世話になった越後線。実家が越後線沿線に引っ越した当時は、未だ家の前の最寄駅も出来ておらず、便数も一時間に一本程度の典型的赤字ローカル線だった。バス停すらなかったので、自家用車かタクシーでないと家にたどり着けなかった。
引っ越しの翌年、突然、実家の目の前に、バス停と、さらに新駅が出来た上に、越後線の運行便数も一挙に三倍に増え、大変便利になった。

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この頃は未だ新潟大学も旭町にあり、内野などは辺境の地であった。しかし、中学校の頃、越後線で通学して来る友人が沢山いた。当時は急行も走っていたことに今更ながら仰天。また、一方、白新線磐越西線からの直通運転も存在した。これは一部については今も続いており、「新潟駅の発車番線ワカワカメ」の一因となっている。

  
(後記)2022年現在、磐越西線から越後線への直通運転はなくなった。便利だったのに、と思ったが、おそらく磐越西線の非電化化が原因なのだろう。



 
5.最後は小学校の修学旅行で会津若松に行ったときの列車、1970年代の磐越西線。その後もボーイスカウトのキャンプで散々お世話になった。

急行で二時間ちょっとで会津若松に付く。製造が大正時代と言う超弩級の古い客車、いわゆる「旧型客車」だった。外見は全体チョコレート色の、まるで貨物車であり、内装は油の染みた木の床と、木製の座席だった。牽引はさすがにSLではなく、真っ赤なDD51だったと思う。

ボーイスカウトのキャンプ(野営)では、東下条と言うところに行くのに、この磐越西線を使った。当時、一日に数本しかない時刻表を見て、沿線の人々は一体、どうやって生活しているのだろう、と心配になった。
 

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