Googlemapで見ると「閉鎖」と赤字で書かれている。何と、過疎化で交番まで無くなったか、と思ったら、改修のため、来年の3月まで仮移転なのだそうだ。ほっとした。
思えばこの秋葉交番、確か、新潟地震の際には既にあって、そのときは一階建てだったのが、地震後に二階建てになった。今ではおそらく建築されてから50年以上経っているのではないだろうか。
この交番にはいくつか想い出がある。
まず、昭和38年の新潟地震の際、共働きの父母が帰って来て、風呂敷包みに服を沢山くるんで持ち出し、交番まで運び、しばらく預かってくれと父が頼んでいた記憶がある。近所の石油コンビナートのタンクが爆発し、ともかく逃げようとしていたらしい。しかし、お巡りさんは「困ります」と押し問答になってしまった。なぜかというと自分もいつどこへ動員されるか分からないからだと。仕方がないので、祖母をそばに居させて番をさせるからしばらく置かせてくれと言っていたような気がする。
その次は、1970年初頭頃、父がCB無線機を会社かどこかから借りて来て、どこまで届くか試そう、一台を自分が肩にしょって出かけた。かなり大きな、カバンくらいの筐体で、単一電池を何本も入れたような気がする。道路を歩いて行き、面白そうなので交番の前をこれ見よがしに「こちら〇〇、どうぞ!」とか大きな声で交信していると、お巡りさんに呼び止められ、マイク貸してと言われ「もしもし秋葉交番です」と話し出した。
父はたいそう慌てたらしく「こちら〇〇三丁目の〇〇〇〇です。」と緊張した声で応答していた。後で、何で交番のそばなんか通るんだ、と小言を言われた。
三番目は夜中にカップラーメンを買いに出たとき。母が未だ生きていたときの話。おそらく自分は小学校高学年。夜の九時頃に皆がちょっと小腹が空いた、と言い出し、そう言えば今流行りのカップラーメンを食べてみるか、自販機で売ってるし、と言うことになった。よし、俺が行ってやる、とタンカを切って千円札を貰い、家を飛び出した。ところが自販機はつり銭切れ。仕方がないので、交番で両替してください、と頼むと、「こんな夜更けに子供が出歩いて、いけませんね」としばらく説教された。しかし、父母が風邪気味でお腹が空いて、と頼み込むと、結局、両替してくれ、無事に買うことが出来た。
最後は、1979年の秋、運動会の打ち上げでハメを外して夜になってしまい、歩いて学校から帰ることになった。誰かを家まで送って行きそこからまた歩き出したので、結局、夜半も夜半、三時頃になった。寒いので小走りに飛行場道路を走って、交番の前を通ると、未だ明かりが付いていたが、気にせず通り過ぎた。それから数か月後、交番の地域訪問で、家にやって来たお巡りさん、magcupの顔を見るなり、「あんた、そういえば、ちょっと前に夜中に交番の前、走ってなかった?」。びっくりして「すごい。良く分かりましたね」と言うと「商売だからね」と返事。高校生が打ち上げしていた、とも言えず、お巡りさんもそれ以上聞いて来なかったので、お茶を濁したような気がする。