magcupの日記

何でも引き付けるカップ、magcup

祖母の葬儀

  • 051203
    • 朝、中木戸から電話、大分あわてている。「おばぁちゃん、K病院で今朝、なくなったんさ。96才、8時35分」。五十嵐に電話したけれども留守電だったそうでこちらに直接かけたとのこと。「友引なんで、今晩は中木戸に置く。それで明日通夜、あさって告別式だよ。場所は東セレモニーホールだからね、都合の付く時に。」
    • さて困った。今日は土曜日。日曜日からは仙台出張だ。取り敢えず五十嵐にメールを打った。三人でフルに出るのは不可能に近い。昼過ぎに五十嵐から電話。家にずっといたそうだ。おそらく中木戸が慌てて電話番号を間違えたのだろう。通夜だけ三人で出る予定だと伝える。日曜日は友引なので通夜とは大丈夫なのだろうか、と家人。
    • 夕方、再び五十嵐から電話、やはり友引なので、一日延びて二晩中木戸に置くとのこと。日曜夕刻、湯潅後、納棺。月曜通夜で火曜午前に告別式。最近は通夜がメインなのでどちらかと言えば通夜に出るのが良かろうと、小学校のうちは学校を休ませるのもまずいだろう、見舞いにも行ってるんだから無理しなくとも良いだろうと。
    • 考え抜いた末、日曜に三人で中木戸に行って挨拶、お別れして一旦帰京、自分だけは途中で別れて仙台へ向かう。翌日の通夜には仙台から長距離バスで向かう。五十嵐で一泊し、翌朝告別式に出席したあと再び長距離バスで帰仙。バスの所要時間は4時間なので新幹線と大差ないうえに料金は四分の一だ。
    • 夕方近く、中木戸に電話した、日曜の昼間行くと伝える。三女のAちゃんが出て、仕事で忙しいのに御苦労様と。
    • その後、駅前まで出て家人と子供の黒い服や靴を買う。子供用のブレザーは時期的に出ておらず、店員に尋ねると奥から一点だけ持って来た。スカートのプリーツが気に入ったらしくそれで良いと。コンビニで夕食を買う。出張とセミナーの準備もあるので大変。さらに仙台に持って行く予定だった実験用の道具━全長1.2メートルの竿のようなプローブ━もかかえて大宮回りしなければならない。仙台−N市間の手配はバスか新幹線か未だ確定出来ないので行わない。日曜のN市から仙台は時間が遅いため新幹線しかない。靴の手入れをして、新幹線の手配をして就寝。
  • 051204
    • 日曜、7時起床、余裕を見て9時に皆で家を出る。昼食は駅弁を購入して済ます。駅からタクシーで中木戸に向かう。柳沢クリーニング店で左折。既に大勢集まっている。挨拶をして遺体を拝む。子供には死に顔を見せない方が良かろうと言われ、顔を覆った布でを取らずにそのままで手を合わせる。
    • 何年かまえに蜜柑の鉢植えを贈った際、小さな実を食べ終えた後、庭先に植え替えておいたら、今年、大きな実が十以上もついたと言って出してくれた。けさまで沢山あったのだが誰かが盗んで行ってしまったそうだ。一つ頂く。子供にも一房、薄皮を剥いて供養だからと食べさせる。
    • 5時に湯潅後、納棺と言うことであったが、電車を予約済みであるためと、暇す。次女に送って貰う。最初、従妹のJ長女が送ってくれると言っていたのだが、K次女に私が送ってくからいいからと言われて結局そうなった。最初、長女に「送るから」、と言われたときに、つい大丈夫?と言ってしまったのが気にかかる。みんな集まっているのに使ってしまって良いか、と言う意味で聞いたのだが、運転技術を信用していないみたいに受け取られていないと良いのだが。おそらく気にしていないと思うけれど。
      • あとで、叔母から湯灌が大変だったと聞かされる。何が大変なのか良くわからないが大変だったのだろう。「でも若い女の子に洗ってもろておばぁちゃんも幸せだったこてさ」
    • 大宮で家族と別れ、一人仙台へ向かう。車内で大宮仙台の自由席乗車券を購入してあったのだが、東北新幹線のはやては指定席は満席で、立ち席も所定枚数発売済と言う。その次の便の新幹線も指定席は満席とのことなのでトラブル覚悟で乗車。もちろん立ちっぱなしであったが検札も無く特に問題は起こらなかった。研究所到着は9時過ぎ。前のスケジュール人が明朝まで測定したいとのことなので装置のテストのみ行って就寝。
  • 051205
    • 翌朝、信号が観測されるのを確認し、今回の実験方針を相棒と相談して昼過ぎに仙台を出発。ワイシャツを持って来るのを忘れたため、ダイエーで購入し、駅まで徒歩、2時半のバス搭乗。切符は乗車時に回収される。バスは隣が空席で快適。お茶やおしぼりのサービスもあった(新潟交通便のみ)。途中、雪景色の高速道が夕日に染まって大変良い。渋滞も無く、定刻よりも速く駅に到着。タクシーで東セレモニーホールに向かう。次女の一家が受付。控え室に行くと大勢集まっている、何十年ぶりに会う人も居た。
    • 会場入り口の近くで二十年ぶりくらいになるY従妹と会う。みんなお母さんそっくりになったと言っている。父親(三男、H叔父)がやって来て、ちょっと他人行儀の口ぶりで、長兄らに挨拶したかと聞き、Y従妹も少し他人行儀に、はい、と答えている。「いやぁ、そのやり取り、いずれうちも参考になるから」と言っておいたが、自分に小さな娘が居ることを把握していないらしく、特に反応がなかった。
    • 葬儀会場に入ると長従兄がお前は遠くから来たんだから前に座れと指示。一番前に着席。その長従兄と、S叔母が最前列。伯父らの夫妻は横の遺族席に居る。E長従姉が焼香のたびに叔母から数珠を借りていた。
    • しばらくすると、「ほうじょうさま」が従者を一人従えて入場。法要が始まる。息を引き取った際(後記、枕経)に息子の方が来たので通夜には是非ほうじょうさまにお願いしたい、とK次男が直接頼んだらしい。お経はかなり長い。途中で焼香やお祈り(?)のときなどはアナウンスが入る。お直り下さいというのもあった。一時間近くすると、ろうそくを白色から赤色へ係員が変えた。初七日の法要に移るとアナウンスが入る。
      • (後記2021年8/12記、「35日壇払い法要」である。初七日ではない。)
    • 壇払い法要で再び焼香がある。シンバルのような鳴り物と拍子木が入るのを初めて聞いた。講話で初めて、菩提寺である善導寺が浄土宗だったことがわかる。祖母が生前、ずっと浄土真宗だと言っていたらしい。
      • 自分も菩提寺の本尊である知恩院に母の納骨に行ったとき、受付の人に「浄土真宗ですよね」と言ってしまい怪訝そうな顔をされたことを思い出す。、
    • 法話の中で特に印象に残った話━『日本人の勤勉さ、温和さ、正直さ』はもともと備わっていたのではなく、仏教由来であると。
    • 通夜と告別式の挨拶は三男のS叔父が行った。途中大分詰まっていたが、感極まったと言うわけではなく、単にせりふが詰まったらしい。しかし後でみんなが、こういう挨拶がすらすら出来てもおかしいからあれでよかった、と言っていた。子煩悩で優しい母でした、と言う、客観的な言葉での評価を生まれて初めて聞いた。火葬場で待っている間に、昔、鳩を飼っていたが二三回餌をやっただけで何もしなかったとか、鶏やうさぎも飼ったとか、あげく、カラスも飼ったとか、いろいろな話が出てきた。何をしても何も言わなかったらしい。
    • 自分も玄関に面した障子戸に何箇所か釘を打って大きなコイルを巻いて鉱石ラジオを作ったり(戸のサイズくらいある大きなコイルにすると共振回路の損失が極めて小さくなり、スピーカーが鳴らせる)、毎夜毎夜、空き缶を拾い集めて百個以上も部屋の中に溜め込んだり(切り開いてEの字型の鉄芯にしてオートトランスを作った)、模型の船を、竜骨から作ると言って部屋の中でノコギリがけやカンナがけをしたりしても母親に何も言われなかった(無論父親にも)こともそれに由来しているのかも知れぬ。
      • 全く無言で無視されていたわけではない。母親に「空き缶を何百も集めて、何かを作りそうなことはわかるんだけど、ちゃんと考えがあって、大丈夫なんだろうね?」と、確認はされた。
    • 通夜のあとのお斎(おとき)で夕食の代わり。寿司はあっという間に無くなった。おでんをいただきながらビールも何杯か飲む。最後にラーメンが出たので皆で頼んだ。今晩帰京すると言う従妹(四男の長女)の鞄にみんながワインの小瓶をぎゅうぎゅう押し込んだ。
    • 帰り際に長従兄が「お前は泊まりはどうする?」と聞いて来た。今日は五十嵐に泊まるからと言って別れたが、通夜なのでセレモニーホールの宿泊施設に泊まるべきだったかも知れぬ。父親が長従兄はお前が一緒に泊まると思っているのではないの、と聞かれたが、五十嵐で風呂にも入れなかったことを考えると、その場で再考すべきだったかも知れぬ。翌日、火葬場で話を聞くと昔、十年ほど下宿していたGちゃん(がくちゃん)が泊まったそうだ。総計で何人宿泊したかはわからない。
    • 夜、おときの会場からくすねてきた日本酒を冷で飲んでセーラースターを二話ほど見て就寝。あんかやストーブを出してくれておいたが、風呂に入れて貰った方が遥かにありがたい。やはりKちゃんの言う通りセレモニーホールの宿泊施設に泊まるべきだったか。
  • 051206
    • 朝、七時起床。布団を二階へ上げる。朝食は昨夜コンビニで購入しておいたサンドイッチとカップめん。自分は後者。八時に出発。開式10分ほど前に到着。ちょうど、三女のA従妹が、息子三人を車にのせて着いたところだった。颯爽として見える。T旦那さんは先に来て受付をしてくれていたらしい。何と旦那さんのお父さんも来ている。孫三人居るからかも知れないが、ありがたいものだ。
    • 告別式の始まる前に長従兄がやってきて、お前は骨を拾いに行くかと聞かれたので行く行くと答えた。読経は滞りなく済み、棺をマイクロバスにセットし、白鳩放鳥の後、火葬場へ向かう。発車前にクラクションを長めに鳴らすのはやらなかった。理由は不明。火葬場へはマイクロバスに乗車できるだけのかなりの人が同道。火葬場は改装されてかなりゴージャスなつくりになっている。1978年に母親を見送った際は、炉口も屋外だったはず。火葬開始まで見送ってくれた人々はバスで一旦、帰還。集骨(骨上げ)には数名だけ残る。長男の息子・娘、次男の娘(長女)、長女の息子(私)、三男、次女、次女の娘(長女)、Gちゃんの七人。Gちゃんは私の母親の火葬にも来てくれたとのこと。十年の間、あの二階に住んで居たからか。S叔母(次女)は、「そりゃぁGちゃんは、おばちゃん(祖母)に育てられたようなもんだからあたりめだこてさ」と言っている。
    • 帰りの車はタクシーと次女の長女(従妹)の運転する車に皆で分乗。ついタクシーの方に乗ってしまったが、今度こそ従妹の運転する車の方に乗れば良かった。通夜の前日に来た際も乗らなかったので。
    • 火葬後、一時間程度お茶を飲みながら待つ。叔母によれば通夜前日の湯灌は「壮絶(ママ)」だったとのこと。若い女性が拭いてくれたそうだが、大変な仕事だと皆が納得していた。自分の母親を見送った際の湯灌は覚えがないのだがどうしてだろう。学校に行っていたのかも知れぬ。
    • 骨を拾い、セレモニーホールに戻る。喉仏の骨といくつかを小さな骨袋に、それ以外の全てを大きな骨壷に入れる。自分が拾ったものの中に喉仏が入っていた。これの形が阿弥陀如来に似ているところから大事にするのだそうだ。自分が拾った分にちょうど入っていたのを係員が目ざとく見つけてくれた。火葬証明書は必ず大きな骨壷の内側に入れて置くのだそうだ。そう決められているわけではないのだが、人に渡したり、外側に貼り付けて置いたりすると、その後のおときで酔っ払って必ず無くするのだそうだ。
    • 通夜前日の打ち合わせはなかなか決まらなくて葬儀社スタッフに夕食を出前で取ってやったりしたことや、打ち合わせにお前(私)も出た方が良かったとか、知恩院への納骨をどうするとか、家紋を間違えていたとか、私の携帯の番号が何番かとか、いや教えるとうるさいから教えるなだとか、従姉と叔母にいろいろ聞かれながらセレモニーホールに帰還。既に「おとき」が始まっている。新幹線の設計をやっていたと言う三男に、お前は超伝導をやっているそうだが日本で第一人者なのかと聞かれ面食らう。自転車操業でなく、第一人者になれるようなニッチなテーマを探したいと思った。ともかくコースをご馳走になり、お酒もいくらか飲んで四男と従姉(次男の長女)とタクシーに同乗して駅に向かう。
    • 帰りのバスはJR乗り入れ便で、おしぼりも添乗員もお茶もない。これで同じ料金とは。おまけに隣の席も埋まっていた。発車後、最後尾の席が空いていたのでそこへ移動。アナウンスでも空いていれば動いてOKと言っていた。米国の国内航空便のようだ。仙台駅からバスで再び出張先に向かう。途中でカップみそ汁(かに汁)を購入。仲間に測定状況を確認した後、おこわを二人分、控え室で食す。
    • 数年前、もう足も大分悪くなって家の中も歩行器で移動していたころの話。足への血のめぐりも悪くて、夏でも足が冷たい。耳も聞こえないし歩けないし、もうだめだ。こんなんでは生きていても仕方ねぇ、としばらく愚痴を言ったあと、ぼそっと一言「でも死にとねぇ」。とても大事な事を聞いたような気がしていた。誰かにこのことを伝えておかねば、とこの数年間ずっと思っていたが結局言いそびれたのでここに記す。