magcupの日記

何でも引き付けるカップ、magcup

日本インターネット書紀

めずらしく、毎日新聞(オンライン4/3)に面白くてためになる記事が出ていた。
ニュース・キーパーソンインタビュー「日本にはインターネット利用産業しかない」 鈴木幸一IIJ会長
インタビューでは、本には書いてない内容として、

  • 郵政省だけでなく科学技術庁(現・文部科学省)も事業化に反対
  • 日本でインターネットは学術ネットワークとして使われ始めた
  • 商用化でメシの種にするのはよくない
  • 米国が作ったプロトコル(通信規格)を使うのかと言われた

であったとことが記されている。

iijは1992年に設立されたものの、1994年まで通信事業者としての認可が下りなかったそうなのだが、自分の記憶では80年代後半に、既に"iij"と言う単語が「パソコンワールド」(コンピュータワールド・ジャパン)と言う雑誌に頻出していたような気がする。
88年か89年当時、友人と大学での会話で、

  • 「インターネット」はパソコン通信のホストではなく、「プロバイダー」と言うところにつなぐ
  • そのプロバイダが、「世界中へつながる回線」へつないでくれる

と聞いて、で、その「世界中へつながる回線」は誰がお金出してるンだ?と思った記憶がある。インターネットが学術的なものとか、米国が核戦争に備えて作った、と言うことは自分ですら強く認識していたので、当時、科技庁が反対するのも無理はなかったと思う。

1980年代後半当時は、大学の研究室でさえ、パソコンはインターネットには直接つながっておらず、音響カプラで内線番号をまわして(実際、まわすのだ!!)計算機センターにつないでログインし、ビットネット(bit-net)と言うものでメールを送るらしい、インターネットとビットネットは大体同じだけれど微妙に違う、などと言うあやふやな情報しか入って来ていなかった。

1990年に移った先では、少なくともハードウェア的には完全に「インターネット」に接続されていた。と言っても、イーサボードなどは未だ高価で普及しておらず、パソコン本体も、殆どがPC-98シリーズだったから、そこいら中にシリアル変換ボックスが用意されて、25ピンの太いRS-232Cケーブルでつないでいた。ソフトウェアは未だMS-DOS3.3Dの時代であり、それはすぐに5.0Aになったものの、端末ソフトすら普及しておらず、個人の方が開発された「何とかターム」(何とか、をあらわに書いてしまうと、どこの話だか完全にばれるので秘匿)が配布されていてみんな便利に使っていた。IPが取れていたかどうかは覚えていないけれど、おそらくダメだったのだろう。

それに、未だメールアドレスも取得していなかった(申請すれば取れたのだけれど、取ろうとも思っていなかった)し、LaTexPC-9801dvioutが頑張っていたし、netscapeが動くわけはないし、じゃあ一体全体、何をしていたんだろう?

思い出した。内輪のシステムで情報掲示板(いわゆるBBS)が作られて、そこで書き込みして遊んでいた。すぐに、ftpやメール、fjなどのグローバルな掲示板につなぐことを覚えて、確かに使って遊んではいたけれど、詳細が思い出せない。おそらく、計算機センターのlinuxから、Rmailとか、newsコマンドを立ち上げていたのだろうと思う。ftpは大変で、一旦、計算機センターのマシンにファイルを取ってきて、それをhexか何かのアスキーに変換して、PC-98の何とかタームで読み取らせた。何でX-modemにしないのかと思ったけれど、結構、転送の信頼性が高いので、交互通信が必要で頻繁に止まるX-modemよりも垂れ流しで十分だった。

その後、Windows3.1が普及し、イーサボードもアライドテレシスとか言うメーカが牛耳っていた。しかし、Win3.1にはシステム的にLANがサポートされていなくて、トランペットWinsockとか言うソフトを入れる必要があった。で、すぐにWindows95が発売され、これはLANに対応していて、イーサボードのハードウェアドライバさえ入れれば、IPアドレスがちゃんと割り振られた。
シリアル接続から、イーサ接続に変わったのも、ちょっと記憶がぼけてしまっている。確か、担当の人に、こんなツイストペアじゃあ、雑音撒き散らしだから、是非、同軸にしませう、と言ったことは確かなのだが、、、。