magcupの日記

何でも引き付けるカップ、magcup

(父の想い出)父母と祖母が戦争について言っていたこと

悲惨さを語っていたとかそういうことでは全くない。子供の時に良く聞いた話をメモしておく。

  • 母方の祖母(1909±1、明治42±1年生)セキノ
    • 戦時中も食うものには困らなかった(地方都市の中心部に住んでいて、炭の販売をしていたのだが、どうして食糧に困らなかったのかは不明。農家と炭の取引があったのか)。
    • (後記)2021年9/26記、母の戸籍を取った結果、祖母の出生は、明治43年9/15(1910年)とわかった。祖父との結婚は、昭和8年2/9(1933年)であるので、23才の頃である。
  • 父方の祖母(1904、明治37年生)
    • 日清(1894)日露(1904)で味をしめていい気になったのが悪い、と口癖のように言っていた。
    • 現代の警官や警備員、制服を着ている人は全て「憲兵」と呼んで嫌っていた。何か命令されるのが気に障ったらしい。
    • 「弟はおだてられて伍長になって軍刀を持って先陣を切らされてあっと言う間に死んでしまった。遺灰も石か何かだけだった。お前は後ろに小さくなっていろ。」
  • 父(1933、昭和8年生)
    • 原爆疎開は確かにあった。恥だと言う気持ちも大いにあったので、その後、みんな口をつぐんでしまったんではないかな。
    • 軍用犬のシェパードを飼っていた。とても可愛がっていたんだが、応召されて出征を見送った。「見事な活躍であった」と言う手紙が来たがどうだったか、、、。
  • 母(1937、昭和12年生)
    • 防空壕から首を出して高射砲の弾がB29に届かないのを良く見ていた
    • ラジオの大本営発表で、輸送船が撃沈された、と言うのを聞いて「ああ、輸送船で良かった。大したことない」、と何度思ってしまったことか。(昭和50年代頃、シーレーン防衛が盛んにニュースで議論されたとき。)