magcupの日記

何でも引き付けるカップ、magcup

Kちゃんの葬儀

電話は携帯からだったので、最初、誰だかわからず、取らずにいると留守番電話にメッセージを入れだしたので、慌てて受話器を上げた。Kちゃんが亡くなったとのこと。「忙しいだろうから告別式とお斎だけでも」と言われたのだが、もちろん、お通夜から行くつもり、Kちゃんの葬儀に。
往復の新幹線を予約し、斎場のすぐ近くのちょっと高級なホテルを取った。お通夜当日、午前中の大仕事をすっかり済ませ、昼食を取ってから出発時刻まで、仕事での英文添削の結果を直してから、仕事で着ていた服を礼服入れに入れて喪服に着替え、雨の中を駅に向かった。
 
夕刻、暗い中、N駅で新幹線を降りる直前に、今回は泊まりだったことを思い出した。何も持って来ていない。どうりで軽装過ぎる。駅前のコンビニで着替えを一式買い込んでからタクシーに乗った。意外と駅ナカには、肌着を売っているコンビニは無い。
斎場に到着したのは、もう開式の直前で、「遠いところ悪かったねぇ」の声を聞きながら慌てて席に着いた。先代の方丈様が亡くなられたのは昨年のことで、今は二代目である。連れのお坊さんと二人で読経に入る。親戚の数がたいそう多い、みんな来ている。お孫さんも八人、そして外戚の方々も多く見えられていた。ひとしきりお経が終わると、ギターを抱えたご老人が現れ、お孫さんたちと一緒に「千の風になって」をコーラスされた。その後、故人の思い出について語り出された。老人のお名前はMi先生とおっしゃり、今はスポーツ団体の会長さんである。故人とは小学校からの付き合いで、ご一家で近しい間柄とのこと。自分たちの小学校時代のことや、子供さんの結婚のときの秘話や、故人がスポーツを始めたきっかけなど、かなり長いこと話された。アナグマの童話を思い出してちょっと泣けて来た。
 
その後、もう少し読経があり、弔電紹介、故人とのお別れ、遺族の挨拶があった。挨拶はS旦那さんが「僭越ではございますが」といささか緊張しながら努められた。電力会社(東電ではない)にお勤めのエリートながらとても気さくな人である。お母さんと娘さんが、最近、故人の介護で疲れて寝ている間に、週末に単身赴任から帰って来たS旦那さんが手料理を作ってくれると自慢されていた。その後、「通夜振舞い」が別の階であった。お腹もだいぶ空いていたので、ビールと食事をたんといただいて、タクシーでホテルに戻った。
Kちゃんたちがもともと大勢の親戚と一緒に住んでいた大きな屋敷を出て独立したのは昭和39年くらいだろうか。昔ながらのボンネット式の四トントラックに荷物を山のように載せて出発して行ったのが瞼にくっきりと焼き付いている。同乗の二人の子供たちは目をキラキラさせてバイバ〜イと手を振っていた。自分はそれまでいつも一緒に遊べた従姉妹が居なくなる、というので泣いていたと思う。その後、Kちゃんはとても小さな会社を興し、それがいつの間にか特許を取ったりして、数十年の後、今の隆盛を築いたのである。

Kちゃんの特許(実用新案)

あの出発するトラックの中の子供たちの目のキラキラは、当時、三四才の子供だった自分にもはっきりわかる、人生の転機というものを教えてくれたと思う。


(後記、2019年1月記)宿泊は日航ホテル。翌日、同じ東セレモニーホールで告別式があった。骨拾いは直系の親戚だけで行った。その前後のお斎(おとき)の直前、実家の父親が不安そうな顔でやってきて「うちがお斎に呼ばれてるかどうか聞いてくれないか?」と言う。数年前に「もう親戚付き合いしない」と言っていたはずなのに、と思ったものの、もやは弱りかかっている年寄りを無下に扱うのもどうかと思い、ホールの係の人に席順を聞いてみると、そっと、部屋に入れてくれて名簿を見せてくれた。名前があったのでその旨伝えると安心していた。
 
(後記)2023年5/7(日)記、戯れに登記情報サービスで登記簿を取得してみた。所有権移転は、平成24年4/29相続Kさん、となっていた。登記受付は半年後の10/23である。