母親は、昭和12年生まれで、昭和53年に急性白血病で亡くなっている。その母親が生前に語ったこと。いつ頃聞いた話なのか今となっては正確には思い出せないが、おそらく昭和50年頃に自分に語ってくれたのだと思う。
それまでも、常日ごろ、『私(母親)は、中央高校(地元のトップの女子高)に入りたかったので、中学生の頃は死ぬほど勉強した』と繰り返し言っていた。姑が行っていたK高校には死んでも行きたくないと思っていたのだそうだ(これを聞いたのは一度だけ)。
ただ、高校に入ってからは『全く勉強について行けず、お客様だったわ』とのこと。
そして、大学受験(おそらく昭和三十年)の際は、上京して、いろいろ沢山の大学を受けたけれど全滅だった。『津田も本女(「ぽんじょ」と呼んでいた記憶がある)も、全部だめだった』と、ため息をつきながら語っていた。そんなため息をつく母親の姿を見たのは初めて(で最後)だった。
最近、亡父の納骨式のお斎の際、叔母から、「姉ちゃんは高三のときに、卒業記念で遠くまでサイクリングに出かけて、そのときになぜか膀胱炎になって、ペニシリンまで打つはめになり、受験勉強もあまり出来なかった」と言う話を聞かされた。
小坂一也の「青春サイクリング」は1957年(昭和32年)だから、それよりちょっと昔だ。ちょうど自転車でツーリングするのが流行し出したからこの歌が出来たのだろう。
『お前は お客様 にはなるなよ』と言う、当時の母の言葉が今でも耳から離れない。挫折を味わった人間の心からの言葉だ。